自分はどこまでが自分か
自分という言葉は、非常に不思議なことばです。
「自分はどこにあるか?」
といわれれば、自分の鼻や自分の胸を指さします。
しかし、「自分はどこまでが自分か」という問いは
考えれば考えるほど、分からなくなります。
ここで、ちょっとした
思考実験をしてみましょう。
眼の前にペットボトルの水があるところを想像して下さい。
このペットボトルはあなたが買ったということにしましょう。
眼の前のペットボトルはあなたでしょうか?
それは違うでしょう。
では、その水を少し飲んでください。
あなたが水を飲んだことで、
飲んだ水は、あなたの一部になりましたね。
はい。なりました。
まだペットボトルの中に入っている水は、あなたではないけれど、
飲んだ水は、あなたになったとしたら、
どこ時点で水はあなたに変わるのでしょうか?
うーん?口の中?胃の中?
ペットボトルの中の水は飲んで、ペットボトル自体を捨てたら、
水が自分で、ペットボトルは自分じゃないのでしょうか?
うーん、そうかな。
では、キャップをあけて、水を全部捨てたら、
捨てた水は自分ではないことになりますね。
どの時点で水は自分じゃなくなりますか?
・・・・・・・
じゃあ、誰かがこの水を勝手に飲んだら、
あなたはどう思うでしょうか?
もし、私が買った水を誰かが勝手に飲んだとしたら、
私はイラッとすると思います。
イラッとするということは、ペットボトルを買った時点で、
ペットボトルはあなたのものになるでしょうか?
そうですね。私が買ったペットボトルは
私のペットボトルだと思います。
残りの水を私が飲んだら、
あなたが飲んだ水と、私が飲んだ水との間で
境界線がひかれるのでしょうか?
それはないと思います。
思考実験は、これぐらいにしましょうか。
「私」「自分」という概念は、このように非常にあやふやな存在です。
なぜこんなことになるかというと、
「私」「自分」という概念は、私たちの頭の中で勝手に決めているものだからです。
この「自分」という概念は、
もともとは自分を守るのに生まれた大切な本能からできた概念です。
自分、もしくは自分の大事な家族が危険にさらされれば、
戦うか逃げるかして、なんとか生き延びようとしますが、
見知らぬ人が危険にさらされたとしても、
戦ったり逃げたりはしませんね。
「自分」という存在を脅かすものにたいして、
私たちは闘争逃走反応をしますが、
「自分」という範疇にはいっていなければ、
闘争逃走反応はおきません。
よその国の戦争のニュースよりも、
自分の歯の痛みのほうが気になるのも、
この「自分を守る」という本能があるためです。
自分だと思う物にたいしては反応するけれど、
自分の範疇にはいらないと思う物にたいしては反応しない、
ということは、いいかえるなら、
これは自分で、これは自分でない、
と勝手に境界線を引いていることになります。
この本能は、命を守るという大事な働きから生まれた働きですが、
「自分」という概念が「私の家族」「私の家」から、
「私の会社」「我が民族」「私が祖国」「私の経験」というように
所属している組織や本人の記憶にたいして意味がひろがってしまうと、
意図しない影響が出てきます。
戦争が起きるのは、この国は私のであり、よその国はわたしのではないからです。
でも、その考えによって殺し合いが起きたとしたら、どうでしょう。
「私の」という境界線がなかったら起きるはずのないことで、
人々が戦うことになる羽目になります。
別の例を考えてみましょう。
過去に人からバカにされた経験があり、そのことが記憶の中にこびりついているとします。
その経験をよいふうにとらえて、
一生懸命勉強する前向きなエネルギーに
変えることができるかもしれません。
しかし、「自分=バカ」という記憶と戦って、
人からバカにされると腹をたてて、人を傷つけようとしたりします。
あるいは、「自分=バカ」という記憶から逃げようとして、
またバカだと思われるんじゃないかと、
前向きに行動するのを避けようとするかもしれません。
道化に徹することで、痛みをやわらげようとするかもしれません。
しかし、「バカにされた経験」があったとしても、
その経験を所持することをやめて、
「自分」ではなくなれば、そのような悪影響はでにくくなります。
この拡張していく「自分」というものは、本当の自分とはまったく関係がありません。
この自分という概念によってその人自身が振り回されることがあります。
いずれにせよ、その人の頭の中のプログラムにためにならない記憶があることで、
その人の行動が制限されたり振り回されたりするなら、
その記憶は本来の自分と「偽りの自分」を同一視していることになります。
そして、その偽りの自分に振り回されなくなったとしたら、
エネルギーを本来の自分のために使えるようになるでしょう。