五蘊盛苦とは
昨日の投稿で、仏教では、生きづらさを八種類に分類し、
そして、それを「四苦八苦」というという話をしました。
そのなかの、五蘊盛苦だけは、
他の七つの生きづらさにくらべて、
説明を読んでも抽象的すぎて理解しづらいところがあります。
「五蘊盛苦とは、人間の体と心を構成する五つの要素から生じる苦しみのことです。人間は五つの要素が一時的に集まってできたものであり、実体や本質はないと考えます。しかし、人間は自分に実体があると思い込み、五蘊に執着して苦しみます。このように、五蘊によって生じる苦しみを五蘊盛苦と言います。」
といわれても、何のことだかよくわからない、ですよね。
五蘊盛苦をどんな風に理解しているかを
わたしなりの解説を試みたいと思います。
五蘊とは
五蘊(ごおん)または五蘊(ごうん)とは、
わたしたちの心と体を構成する以下の五つの要素のことです。
- 色(物質的な存在)
- 受(感覚)
- 想(イメージ)
- 行(意志)
- 識(判断)
私という存在を考える時、物質的な部分だけでは人間とは呼びません。姿形は人間であっても、感覚もイメージも意志も判断もなければ、はりぼての人形にすぎません。ですから、五つの要素からできている、という言葉を理解するのは問題ないと思います。
実体がない?
仏教では、人間はこれらの五つの要素が一時的に集まってできたものであり、実体や本質はないと考えます。
この「実体や本質はない」 という言葉に引っかかる人もいるのではないでしょうか。「私はない」という言葉にしてしまうと、 じゃあ、いま考えている私は誰なの?という話になります。
ここで、考えてほしいのは、「これが私だ」と思っている私は、感覚やイメージ、意志や判断などの情報をあつめて、脳の中で再構成した観念にすぎません。
私=お化け
「私」という観念は、お化けと同じ観念です。
テレビで怖い映画をやっていたとします。
テレビの映像は、いちどデジタル化された情報を
光や音にもどしてテレビに映しています。
ですが、怖い映画を見るとき、お化けがいるんじゃないか、とイメージして、ハラハラドキドキしたり、見るのを途中でやめたりするのは、よく考えると不自然です。
お化けがあたかもいるかのように怖いと思うのは、目と耳から入った情報を脳の中で再構成したあと、お化けをイメージし、それに対して全身が反応しているのです。
それと同じように、私という観念も、私の目や耳などに映った情報を脳の中で再構成して
イメージにたいして、反応しているのです。
しかし、脳の中で再構成した自分に「私」という名前をつけると、
あたかも「私」が存在するかのように感じられます。
刻々と変化する
五蘊盛苦を理解するには、無常の考えも理解する必要があります。
仏教には、「諸行無常」といって、
すべての現象は絶えず変化している、という教えがあります。
無常には二つの無常があります。
一つは、刹那(せつな)無常といって、
この世の存在物は、実体を伴ってあるようにみえますが、
実際には、一刹那ごとに生滅を繰り返していて実体がないと仏教では説きます。
刹那というのは、仏教での時間の最小単位で、
七十五分の一秒に相当します。
いまみなさんが見ているモニターの映像も、
連続して表示されているように見えていますが、
静止画の連続です。
1 秒間に表示される画像の数をフレームレート(fps)といいます。
たとえば、30fps は 1 秒間に 30 枚の画像が表示されることを意味します。
フレームレートが高いほど、動画は滑らかになります。
今のモニターだと、60fpsとか120fpsぐらいが一般的です。
おなじように私という存在も、一刹那ごとに生滅をくり返していますが、
意識でとらえるには速すぎるので、自分という物が連続して存在しているように感じます。
もう一つの無常は、「相続無常」といって、
人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿をさします。
このような無常を、わたしたちの意識は、
変化をとらえることがむずかしく、
あるものはいつまでもありつづけ変化しないという風に考えます。
執着とは
そして、この「私」が実在し、それがいつまでもありつづけるのだという観念が
すべての苦しみの根源です。このことを執着といいます。
執着ということばは、現在では「金に執着する」「物事に執着する」などと使われますが、仏教では意味が少し異なります。
仏教において、執着とは、自分の欲望や思い込みに固執することです。
執着は、苦しみの原因となります。
なぜなら、執着は現実とのギャップや変化に対応できないからです。
例えば、お金や名声や美貌に執着すると、
それらが失われたり減ったりしたときに悲しみや怒りや恐れを感じます。
また、自分の考えや信念に執着すると、他人との対立や争いを招きます。
五蘊盛苦とは
ここまで説明して、はじめて五蘊盛苦の意味が説明出来ます。
五蘊盛苦とは、「五蘊によって生まれる私という観念に執着することによって生まれる苦しみ」のことです。
例えば、私たちは自分の顔や手足を見て、「これが私だ」と思います。
しかし、実際には、私たちの顔や手足は「色」という要素であり、常に変化しています。
年を取ればしわが増えたり、髪が白くなったりします。
また、病気や事故で顔や手足が傷ついたり、失われたりすることもあります。
それでも私たちは、「これが私だ」と思い続けます。
このように、「色」に執着することで苦しみます。
同様に、私たちは自分の感覚やイメージや意志や判断を見て、「これが私だ」と思います。
しかし、実際には、私たちの感覚やイメージや意志や判断は
「受・想・行・識と」いう要素であり、常に変化しています。
気分や環境によって感じ方や考え方が変わったりします。
また、忘れたり間違えたりすることもあります。
それでも私たちは、「これが私だ」と思い続けます。
このように、受・想・行・識に執着することで苦しみます。